このビデオで、チャールズは自らの創造的な発想、プロセス、それが及ぼす結果について語っている。
チャールズが言うところの「表現主義アーティストの死」は、鑑賞者が新たな意味を与えることによって、初めて新たな生を迎える。このような新たな価値観の真実性や正当性は、得てして複数の意味を持ち、見る人それぞれによって異なり、個人に内在する主観的な偏好や状況の変化によって、しばしば様々な形になる。
チャールズ・チャウ | 2020年 春
#1
三年前にカナダに戻った時、幸運にもケロウナという、地上の楽園とご縁があり、そこに 「花果山」と言うニックネームをつけました。
「花果山」(Kelowna, BC, Canada) はワインの産地で、ブリティッシュコロンビア州のワインのほとんどは、ここで生産されています。カナダのナパバレー、(カリフォルニアワインの名産地)みたいなものですね。
ケロウナ市自体の海抜が300mもあり、我が家は山の中腹なので、海抜600mにもなります。そういう高い気圧の中にいると、「天・地」が近いなと感じます。
すごく面白いのは、夕暮れ時にテラスに座っている時や、普段外をぶらぶらしている時に、「天・地」 がとても身近だと、感じられることです。これはカナダにいるからこそ、原始的な感覚を体験できる、と言うことだと思います。
シンプルライフ、 素朴で、気取らない、地にしっかり足のついた毎日で、あちこちで花や果実を見かけます。この恵まれた環境の中で、私はシリーズの創作を始めました。
#2
始めたばかりの頃、いろいろ挑戦してみたいし、 アイディアもたくさんありました。でも、実際に取り掛かると、もうあまり考えなくなったのです。元々は思考型人間だったので意外でした。
下絵用のスケッチを描くのは、好きではありません。ある有名な画家がこう言っていました。「大きな絵を描くときに、先に小さな下絵を描いても意味は無い。」拡大した後の実際の絵では、人と大きな絵の間の距離感や比例、視覚効果や感性、衝撃性も異なるからです。フィーリングも全然同じではありません。単に小さな図を拡大しても、同じ効果は得られないのです。
この画家の言葉に大賛成です。だから絵の準備をする時、基本的に、大体の方向性を決め 、それに少しの小さなルールを足して、すぐ描き始めます。
たとえば、《無限の緑》(Infinity of Greens) と言う、シリーズがあります。或る時 ケロウナから、バンクーバーまで、車を走らせたのが、ちょうど春の末、初夏の時でした。わあ!道中目に入るものは全て、緑色です!同じような緑色ではなく、様々な緑色がありました。積み重なった緑が形作る景色は、凄くきれいでした!
緑色は元々豊かな色で、青みが勝ったものや、赤みが勝ったもの、黄みが勝ったもの、白みや黒みを帯びたものまで、多くの色合いの、グラデーションがあります。私は筆を進める度に、愉快な気持ちが高まり、ずっと描き続けました。永遠に描き続けられるとさえ、感じたほどです。モネだって蓮池に対峙して、何百枚も描いたのでしょう?
#3
「芸術家は神の代理人だ。」と言った人がいます。その通りです、不思議なことに、自分が絵を描いていることを、忘れている時があります。何かの力が、私の手を、私の心を通して、私と言う人間とその体を通じ、何かを表わそうとしているような、奇妙な感覚になるのです!
或る人に聞かれました。「絵を描く前に瞑想するのですか?」わあ!そんなことしませんよ。瞑想なんか解らないし、新世代の瞑想は奥が深いんですよね。私は瞑想派ではないし、解りません。
でも絵を描く時は、心静かに平和で安らかな気持ちに、なるようにします。もちろん描いている時には、情熱的になることもあって、ハイな気持ちになることもあります!
絵を描くことの面白さは、ある面では書道にも似ています。踊るように、筆を舞わせるところが、似ています。もちろん書道の方がずっと難しい。書道では間違いが許されないからで、中国画の難しいところは。描き間違えたら直せないことです。
「芸術とはある種のライフスタイルだ。」と言ったアーティストがいました。私は違うと思います。芸術は生命そのもの、生命の痕跡です。芸術はある時間帯の感情やフィーリングを、凝固させたみたいなものです。「凝固」 させるのは通常一瞬のものではありません…
私は絵を描く時、普通は先ず一、二週間描いて…、三、四週間間を空けてから、また描きます。二、三か月、時には一二年間空けて、そのフィーリングを 、「凝固」 させていきます。
だからやはり私は絵を描くことが大好きなんですね。凝固させるのはダイレクトで、ストレートなフィーリングなので、繰り返し再現するのは、簡単ではありません。
#4
色或いは色彩と言うのは、とてもダイレクトなものだと感じます。色は濾過されたり、干渉を受けたりすることなく、そのまま人に伝わるからです。
例えば、私が書く文章は、文字の組み合わせです。文字自体は中立的な符号ですが、作者の巧みな配慮で、一段一段の字句や文章が、構成されているため、読者を扇動したり、ある考えに向けて、誘導したりするのは簡単です。文字の誘導性は、けっこう高いからです。
「色でも同じことが可能か? 」というと可能です。赤は危険だとか、緑色は快適で穏やかだとか、オレンジ色は凄くショッキングだとか、ピンクや紫色は艶めかしいとか、色が人に与える感じはダイレクトです。一目見ただけですぐ反応します。
その反応は当然見た人の、文化的なバックグラウンドの影響を受けているので、異なる歴史や経験によって変わります。人が見るものには、どれも「主観的な偏り」が、避けられません。それが「色」の特別なところです。
#5
私にとって、抽象表現は… 容易とか簡単とか言えるか?と言うと、うまく言えません。どこが難しいかと言うと、私はいつも冗談めかして「抽象表現とは魔法の鏡だ。」と、言っています。
先ず絵を描く者にとっては、自分が何を考えているか、どういう人間であるかを、抽象表現で描きだすと言うことは、まるで服を着ていない姿を、全部人に見せるようなものです。
絵を描いていた時の思考や情緒を、一分ごとの感覚まで。見抜かれてしまうのです!
だから私はこの数年、ケロウナで本当に楽しく過ごせました。とても純粋にシンプルに、たくさんの絵を創作したことは、感謝に値することですから。
#6
絵が完成した後は?
魔法の鏡が私自身を映した後、その絵は既に私の手から、離れています。
「作者の死」と言う意味は?
私が文を書き終わった後、作者と言う身分の私はもう存在しなくなることです。作者という地位も役割も存在しなくなり。その後読者が誕生します。読む人が作品に新たな生命を与えることになるのです。
その時抽象表現は、鏡が役割を終えた後のように、人が観賞することで、新たな角度の視点が加わります。それが面白いところです!
その鏡が美しいか?どうかは、鏡の純粋さ次第です。鏡は純粋であればあるほど、美しくなります。だから誰が、新しい読者になるか次第ですよね?その人は一体どういう気持ちで、どういう環境の下でこの創作を読み、新たな体験が生まれるのか?そう考えると、とても楽しくなります。
#7
その時のことを覚えています、私たちは毎日出歩いていました。ショッピングモールではなく、郊外です。カナダってところは大部分が「郊外」なのですが!散歩して眺める、様々な樹木や湖の風景は、どれも本当にきれいでした。
突然小鳥の群れが!「バッ」と言う音と共に、頭上を飛び去りました。
私は急いで家にもどり、描きかけの木のパネルに描いた絵に、変更を加え、こうして 《一体樹上には何匹の小鳥が?》(How many birds are there on the tree?)は誕生しました。
すごく楽しかった!とても単純で、とても簡単なことや、ダイレクトに感じる嬉しさ。そういう感覚を私の表現方式で、色で、顔料で、キャンバスで、木のパネルで、記録していくことが多いのですが、こういう気分とか感覚は大変貴重です。
#8
私の別の絵、《季節の匂いと色》(Smell of Seasons 馥郁)について。
全てのクリエーターは、音楽でも、絵画でも、舞踊でも、分野を問わず、季節の変化、春・夏・秋・冬などを賛美したり、表現しようとしています。
今回、私は横長の大作を作ろうと思い、キャンバスのサイズも決め、メインカラーも決めました。赤、黄、青、緑の四色で、私の四季の変化に対する感覚を代表させ、キャンバス上に創作を進めていきました。
サイズとメインカラーを決めた後は、あまり考えずに、そのフィーリングを表現していったのです。
同時進行で描くのが好きなので、描き始めの頃は。通常何枚かを一緒に描きます。この絵を描いたら、あの絵を描くと言うようにして、ふつう二、三週間で一層目を、完成させます。ちょっと止めて、二、三週間後にまた続ける。何か月かかけて全ての工程が、完成となります。
この《季節の匂いと色》というシリーズも、このような環境の中で、完成しました。自分でも非常に満足しています。
#9
ケロウナ、「花果山」での三年間は、本当に楽しく過ごせました。最近引っ越したばかりですが 、友人にはこう言っています。「あそこは進行中の小説のようで、小説の中に入り込んだように、あらゆる事が、物がとても美しかった。超現実の、童話の世界のようで、悪人がいても、悪人さえも優しかった。」すごく特別な経験でした!
花果山の市中心部に壁画も描きました。場所は、その昔、ケロウナ市のチャイナタウンだった所で、今ではたくさんのホームレスも、「住んで」いる所です!
あの創作と、地域での経験は、とても貴重なもので、たくさんの友人が応援してくれました。劉信行(フランキー)のように、トロントから駆けつけてくれ 、何往復もして、そして今こうして録画もしてくれている。
始めた頃は、あまり知り合いがいなかったけど、離れる頃には、たくさんのいい友達ができました。皆さん、本当に、ありがとうございました。
実際には?暫くの間、引っ越すけど、名残惜しいから度々戻ってくる。目の前にあるこれらの絵画は、全て「実際に」存在しています!
これからも、もちろん創作は続けていきます。今温めている構想もあります。
大抵の場合、あまり考えすぎる必要は無いと思うのです。この年まで聞いたこともなかった、「花果山」と言う場所に三年も住むことになったくらいですから!
今後どうするか少し考えているけど、一歩一歩やっていくだけです!