Talk 123

自分の情熱と愛を見つける
Finding Your Passion & Love

Talk 1
あふれる好奇心

みなさん、おはようございます。チャールズ・チャウです。

皆さんは、私をアーティストとして見ていると思います。しかし、私がアーティストになるまでの道のりは一筋縄ではなく、今日皆さんの前で、プロのアーティストとして話をするのも意外なことなのです。

私は1963年、当時イギリスの植民地だった香港で生まれました。香港の多くの子どもたちにとってやるべきことは一つだけ、猛勉強勉強することでした。もちろん、遊びの時間もありましたが、勉強、勉強、勉強で、それがまるで人生のたったひとつの目的だとされていました。

賃金労働者だった両親は、私に「大学に入りさえすれば何でもできる!」と断言しました。それは「大学入学までは、女の子と付き合って恋に落ちることは絶対にダメ」という意味でした。テレビを見る時間も限られていて、家では、勉強と試験で良い成績をだすことだけに集中しました。母の料理もその目的に叶うようにしてました。脳を活性化させるレシピを作ったりして…まさに中国人発想でした。

言うまでもなく両親の期待に反して、私は従順な少年ではありませんでした。言うことを聞く息子だったと思いますか?

実際のこたえは、ある点ではイエス、ほかの点ではノーだったんです。ある部分、私は時間とエネルギーの多くを勉学に費やしました。幸運にも両親が男子の進学校に入学させてくれたので、そこで公的試験で良い成績を取る教育をうけました。唯一の大きな試験は、大学入試に相当する「GCE‐Aレベル」で、17歳か18歳で受ければよかった。また一方で、自身の好きなことをする時間もありました。それが今の「私」を形成することになったわけですが、まずは大学受験後の大事なターニングポイントからお話しましょう。

私の大学受験は1982年、今から約40年前のことです。成績は良かった。香港大学建築学部を志望した理由ですが、当時反抗期にあった私がキャリアを積めそうな面白い学部はここしかない、と思ったからです。そして入学しました。

1980年代初めの時期、香港にある建築学校は1校だけで、建築学科1年生の定員はたった40名でした。当時の香港の人口が600万人を超え、国際色豊かな街であることを考えると、これは今でも不思議なことです。 建築学科の学生にとっては、卒業したら就職先が約束されているようなものでした。確かに建築家の見込み収入で裕福になれるとは言えないかもしれませんが、建築は憧れの職業の一つで、職業的な中流階級になるための道でもありました。

ところが、建築を学び始めて1年も経たないうちに、母に 「申し訳ないけど、大学を辞めます」 と言ったんです。それを聞いた父は、 「えっ、辞めたいだと?まだ19歳だろう!このあとどうするんだ!」 と感情的になりました。私が卒業しないなんて、そこまでこぎつけた苦労を思うと受け入れられなかったのです。そして親子の対立が始まりました。親が泣きながら叱り続けるプレッシャーを受けながら、建築学科の教授の助けをもらって、なんとか芸術学部に編入し美術と哲学を学ぶことになりました。再入部という妥協案を受け入れた親は、怒りも冷めていきました。

なぜ私は建築の勉強や将来有望なキャリアの見込みを捨てたのでしょうか?

それは、残酷な現実とロマンチックな偽装、なのです。

恥ずかしながら事実を言うと、建築学科1年の課題制作は完成していましたが、授業や講義を1年間、サボり続け、期末の筆記試験には全く自信がなかったわけです。この残酷な現実を目の当たりにして、私は試験を受けずに辞めてしまった。学科長が代替の試験を用意するといオファーしてくれたが、受ける気になれなかった。ただただ怖くて、逃げ出したかったのです。

その後、学校の生徒会から論文執筆の依頼があり、ロマンチックな表紙が出来上がりました。私は、「夢をあきらめたら死ぬ」という映画の台詞を引用した文章を書き、夢を追うために旅立ったこと、そしてその夢は建築ではないことを学校の仲間に伝えました。

私はこの決断とその教訓を決して忘れてはいません。

私にとっては、この決断を悔やむかどうか、建築教育の是非を問うのではなく、なぜ授業をサボってそのような状況に陥ってしまったのか、ということが重要なのです。私が求めようとしていた「足りないもの」は何だったのか。

最初の教訓は単純明快で、重要な優先事項に全力を注ぐこと、少なくとも注意と集中の大部分を注ぐことでした。これなくしては、何も保証されず、すべてが崩れ去り、失敗につながる運命にあることを悟ったのです。

ただ、2つ目の教訓は、思ったほど簡単なものではありませんでした。一生追い求める職業が分かるにはどうすればいいか?毎日考え、毎月取り組み、何年、何十年と続けていく価値のあるものとは何なのか? 人には夢がないとは思っていません、必ずあるはずです。でもそれを見つけることに対して私たちはどれほどの決意をもっているのだろうか。その決意は、自傷、疑念、疑問によって揺らぐのか。「努力してもダメなのか」という疑念や疑問は、どんどん積み重なっていきました。

私は、この教訓や疑問を心に刻みました。私は、自分がやりたいと決めたものすべてに対応したいと思いました。もし 「これだ!」と決めたら、必要な努力を惜しまず、全力を尽くすと自分に言い聞かせました。怖がらずに、自分の夢を追い求めるのだ、と。

果たして学習できたでしょうか?少なくとも初期の頃の集中力や努力という点では「ノー」かもしれません。香港大学文学院の哲学・美術学部に再入学したとき、まだ集中できていませんでした。私は勉学とは別に、興味のある仕事をいくつか引き受けていました。複数のタスクをこなせるつもりでしたが、どれも全力で取り組めたてはいなかった。もっと一つのことに注力すべきでした。「集中する」ことを学ぶ必要がありました。やりたいと思ったことに優先順位をつけられるようになったのは、年を取ってから--たぶん10年くらい前からでした。

幸運なことに卒業後すぐに、華やかなキャリアスタートを切ることができました。23歳の新卒で《Car & Driver》誌の創刊編集者など香港版の雑誌の編集者兼アートディレクターに就きました。24歳になって 《プレイボーイ》誌のフォト》グラフィー・ディレクターに着任しました。現在も50年の歴史を誇るアイコン的なカルチャー雑誌の最年少の編集長になったことは、私にとって最高の栄誉でした。《City Magazine 号外》は、わずか25歳の時に創刊にこぎつけました。また、翌年には台北でシティマガジンの台湾版の創刊を共同企画しました。

私は20代のとき、主に雑誌とクリエイティブ・メディア事業でキャリアを積みました。また、香港のポップミュージックのスターの音楽アルバムや写真集などのアートディレクションにも携わりました。ダニー・チャン陳百強のアルバムカバーのアートディレクション、中国のフォーク/ロックのゴッドファーザー、ロー・ターユーが率いる新しい独立系レーベル「Music Factory」音楽工場のたくさんのマーケティングキャンペーンや、カバーデザイン、レスリー・チャン張国榮の絵本《スターク・インプレッション》、アフリカで評価が高い天才的で恐れ知らずのロックグループ「Beyond」の絵本《ビヨンド・イン・アフリカ》(Beyond in Africa) 、も手掛けました。香港のポップミュージックシーンにとって、エキサイティングな時代だったのです。

実際、私の最初の出張のひとつは、レスリー・チャンのフィルム映像のスライド万枚以上を、東京のイマジカオに持ち込むことでした。アジアで Kodachrome を正しく処理できる2つだけのラボのひとつ(もうひとつはオーストラリア)だったからです。1988年のことでした。

今にして思うのは、時間とは連続したつながりで、今日は多くの昨日の積み重ねだということです。

私が美術に強い関心を抱いていた子供だったと、母が最近教えてくれました。幼少期に種が蒔かれ、青年期に花が咲いたということでしょうか。私が6歳か7歳の小学生の頃、「勉強」を休んでいい週末に、母は私を近所の家の習字教室に連れて行ってくれました。その人は、香港中文大学の講師で、中国の水墨画家、蕭立声‌先生(1919〜1983年)でした。 教室では、リビングルームの真ん中の大きなテーブルの上で、墨と筆で遊ぶことができました。先生はまた、規律に従うようにと、午後のはずっと、水平の筆運び 「一」 を100回以上練習するよう「命令」しました。この横線は、最初の基本的な漢字の 「一」 です。単純な線描です。この「ライン」の訓練こそが、私の芸術作品のテーマ何度もでてくることにつながるのです。

その後、1977年から79年、14〜15歳の中学生の時には、第一芸術デザイン学院で夜間のデザインコースを2年間受講しました。ここは偉大なデザイナーやアーティストになる若者を輩出する地元の専門学校です。製図の宿題で、針入りのペンの前身であるブレード罫線と罫線を使った製図があったのを今でも覚えています。目測で間隔をとったり線の太さを揃える訓練は大変でした。

別のスケッチ教室での先生の指示はこうでした。線が途切れてはいけない」「短く切れたり、重なったりする線は使ってはいけない」「一筆書きで線を終わらせるようにしなさい」「エネルギーが感じられる線が見たい」というものでした。このような訓練を通じて、手や筆で書くラインの持つクオリティに初めて目覚めました。単なるラインの話ですが、意外と深みがあるのです。いろいろな媒体や道具を使うことで、豊かで美しいラインやストロークのバリエーションがもっと生み出せることを悟ったのです。

ラインのクオリティは、少年時代に散発的だが特訓から学んだ最初のものでした。大一芸術とデザインの学校、中国書道のクラスを担当したチェン・メイ鄭明)、英語タイポグラフィデザインのホー・チョンキョン(何中強)、中国タイポグラフィデザインのロー・シウ・ヘイ(盧兆熹)、そしてもちろん学院長で創立者のルイ・ラプフン(呂立勛)という多くの素晴らしい講師陣から恩恵を受けた。

1981から1982年(17〜18歳)、Oレベル試験を受けた直後で、2年後にAレベル試験を受ける時期で、嶺海芸術学院の1年間の夜間絵画コースに入学し、色彩について学び始めました。初耳だったのは 「色彩の世界には 『黒々』 はというものはない」 と聞いたことです。

ある晩、水彩画の授業が始まると、講師は生徒全員に、色とりどりの絵具セットから黒いチューブを取り出すように促しこう言ったんです。 「今夜は、黒いチューブを黒として使うことはありません。もし黒で描きたいなら、他の色を混ぜて作ってください。」 彼の説明は 「どんなに暗い黒髪にも、茶味を帯びた色も見える、一番濃い黒い影も、紫のような他の色がうっすらと見える」 というものでした。最初は、そのインストラクターが完全に正しいのかどうかわかりませんでした。私の考えは 「確かにアートでは正しいとか間違っていると意絶対論はないのでは?」 でも彼の教えが、反射をより深く見るよう私を後押しし、物やその色が持つ文脈的な影響に取り組むようになったのです。それ以来色彩をより意識するようになり、特に色相と価値、トーンとシェード、コントラストとハーモニー、寒色と暖色、そして物体がどうのように光源を反射し、暗闇に消えていくかについて敏感になりました。こんな認識を持つ前は、私にとって「黒」は命のない色、つまり光のない色でした。

そして、大学に入学するまでの夏休み、私は香港大学学外上級コース(現 HKU Space College)のライフドローイングのクラスから、当時オープンしたばかりの香港フォトセンターの写真クラスまで、さまざまなアートや写真のクラスを受講しました。芸術を学ぶ機会を逃したくなかったのです。ご想像の通り、写真やドローイングのクラスを受講していた私にとって、「構図」(フレーム内に被写体を入れるか入れないか)は、生涯の探求の旅で学んだ3番目に重要な要素になりました。もちろん、HKUのライフドローイングの授業でベネディクト・ワン先生から線やストロークの授業を受けて形を表現するなど、あちこちで年長者から教わったこともたくさんありました。

建築を履修中のある夏に、香港大学建築学部で師事した水墨画担当の熟練のアーティスト、リー・ワイオン (李維安) 氏から、シンガポールのホテルのロビーの壁に描くフレスコ画の仕事の依頼を受けました。これも、現在の「私」を形成した多くの経験の中で、忘れられない体験となりました。その旅で、プランニングと実施について多くを学びました。

私にとって、好奇心や学習意欲は決して終わることはありません。現在も、さまざまなソフトウエアの使い方を学び続けています。

私の初期のキャリアは、80年代の香港がもたらした黄金のチャンスに恵まれていました。キュレーターが私というアーティストに対してくれたチャンスというよりも、雑誌編集者としての役割の中で自分がつくったということです。当時はキュレーターやキュレーションというコトバ自体一般的ではなかった時代ですから。編集者の役割は、アートキュレーターとよく似ています。どちらの役割も、新たなテーマを特定し、貢献する人(編集者にとってはライター)と協力し、独自の美学を持ったビジュアル形式(編集ではストーリー)を作り出すことです。私は、雑誌に関わるすべてを指揮することを満喫しました。また、その過程で、アーティストとしてキュレーションプロセスへの理解を深めることができました。

そんな学びの機会として、1987年開催のプレイボーイ誌アートディレクターセミナーがありました。世界14の各国版代表が参加したのですが、ニューヨークのアートディレクターは、コンテンツと広告という視覚的な「流れ」を作ることの重要性について、白と黒の長方形を使った模擬試作誌で、納得のいくページネーションフローを見せました。黒い長方形は広告を、白い長方形はコンテンツを表していました。そのとき、雑誌のフローは、音楽の白黒の音符に似ていると思いました。音符の「間」のような息継ぎが、全体の「流れ」を作る大切な要素だと。 こんな学びは、何年にもわたって他にもたくさんありました。

仕事面でもたくさんの学びがありました。アートディレクターとして、サム・ウォン  (Sam Wong) 氏、ケビン・オーピン  (Kevin Orpin)  氏、アラン・イップ  (Alain Yip)  氏など、香港をはじめとする地域のトップフォトグラファーやデザイナーと仕事をする恩恵に恵まれました。彼らは多くのことを教えてくれました。彼らの愛と友情に感謝します。

Talk 2
冒険にでかける

1990年という年は、私にとってレインボーと結婚した重要な年です。その3年後の1993年、ちょうど40年前に、妻と私は香港からカナダへ移住しました。 

1980年代は、私が20代の頃で、雑誌とクリエイティブ・メディア業界で実績を上げるという「最初の」キャリアでした。 1990年代半ば以降は、より厳格で規律正しい「第二の」キャリアに移行することになります。

カナダに移住する少し前に、財務広報を担う会社を設立し、主に新規株式公開を担当しました。私は昔から「コンセプト」が大好きでした。会社を設立するにあたっては、金融やビジネスに関する文献を初めて深く掘り下げて読みました。この世界のコンセプトに興味が湧いたのです!出会った素晴らしいある起業家のおかげで、今度は「ビジネス」分野の学位取得をとるメリットに気づいたのです。

カナダが故郷となり、釣りと読書、それに「趣味」のアート制作というシンプルライフは充実していましたが、若干30歳という若さで、経済的にそんなことを続けられる状況ではありませんでした。そこで、MBAを取得する場所をロンドンに決め、セカンドキャリアという新たな旅に出ることにしました。

ヨーロッパでもトップクラスのビジネススクールであるロンドン・ビジネス・スクール (London Business School) で学んだインパクトは、長い間続いています。それは現在のアート政策と全く関係ないように見えましたが、この対話ノート執筆にあたり、この第二のキャリアで学んだこと、実践したなかで、興味深く関連性があると思うものを記します。

まず、構造的思考への出合いです。

私は香港大学で哲学の訓練を受けましたが、ある意味、構造的思考は、哲学の伝統における「分析的」思考や「批判的」思考に類似しています。どちらも論理的で首尾一貫した方法で思考することを意味しています。

アーティストが論理的である必要はないとか、アーティストの作品は単純な論理だけでは理解できないし、理解すべきではない、という意見もあります。正しい部分もあると思います。ある種の優れた作品には、いつも論理を超えた不可解な感情的要素があります。

しかし、私は早くから、構成や順序がしっかりしている作家の作品に興味をもっていました。私自身の作品も、自分がやろうとしていることについて根拠を示すことを楽しんでいます。問題について熟考し、アートの構造や目的、意義について自分なりの見解を持つようになりました。特に審美学、鑑賞者の役割、言語哲学について、短いエッセイを書き始めました。このエッセイをまとめて、近日中に書籍として出版する予定です。

2つ目は、システム思考を学んだことです。

バタフライ効果はよく知られています。世界の離れた場所で起きた小さな出来事が、大きな世界の大きな変化につながるというものです。この概念は、あらゆる物事や事象の相互関係を説明しています。

ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)では、 「システム思考」 に関する学術文献に触れることができました。そこで履修した選択科目のひとつ 「システム・モデリング」 は、LBS と MIT (マサチューセッツ工科大学)だけで受講できるものでした。このコースは、モデリングソフト 「I think」 に焦点を当てたものでした。システム理論という学問は、エンジニアで科学者でもあったジェイ・フォレスターが1961年に出版した 《産業相互作用》 (Industrial Dynamics) に記されている画期的な研究から始まったことを知りました。フォレスターの研究は、マッキンゼーのフェローであるピーター・センゲが1990年に出版したベストセラー 《学習する組織 — システム思考で未来を創造する》 (The Fifth Discipline) で提唱した正と負の強化ループに関する研究など、多くの人に影響を与えました。

世界は急速に変化しています。古いビジネスモデルは置き換えられるか変化を余儀なくされるでしょう。アートの世界でも同様に、「アーティスト」のビジネスモデルやバリューチェーンは、少なくとも数回の変遷を経てきました。アートとアーティストの興味深い点は、その革命的な性格です。現在の実践のあり方に挑戦し、現在進行中の世界(現在と未来)の感覚を現代的なものにし、更新していくのです。

3つ目は、創造的思考、つまり既成概念にとらわれない思考力を身につけたことです。

私は幸運にも、ジョージ・ベイン (George Bain) 教授がLBSの校長を務めていた時期に、LBSでMBAを学んでいました。彼が提唱した 「3i」、すなわち国際主義、革新、統合は、今でも私の哲学の根幹をなしています。

国際主義。 LBSは、常に国際色豊かな学生集団を誇りとしてきました。平均60人のクラスは20カ国以上からの留学生で構成されることもあり、まさに国際的なエスニック・ミックスと言えるでしょう。

革新性。 LBSに在籍中、ちょうどインターネットのブラウザー Netscape Navigator が誕生しました。まだダイヤルアップ接続だったとはいえ、この発明によって World Wide Web が閲覧でき使用可能になった時代でした。インターネットに接続するまで、「ディー・ドゥー・ディー・ドゥー・ディー」という音がしてたんです。当時、アメリカの副大統領だったアル・ゴアが、情報スーパーハイウェイを提唱していた時期でもありました。LBSでは、幸運にも、先見性のあるビジネスの第一人者であるゲイリー・ハメル (Gary Hamel) 教授から「未来に向けた競争」というテーマでフル講義を受けることができました。多くの想像力豊かなアイデア、シナリオプランニング、未来のマッピングが、私たちの頭の中で完全にスケッチや下書きがされました。当時は学生の夢想の時代でした。すべてが魅力的でした。

統合。 1年生の終わりには、ビジネス事例を解決のために学んだすべての科目を 「統合」 する 「資格試験」 を受ける必要がありました。失敗すると1年目の勉強と投資が水の泡になってしまうので、多くのクラスメートはそれを恐れていました。私にとって、知識と実践は常に 「統合」することでした。ある意味、今の私たちのあり方だといえます。しかし重要なのは、これまでの学習やさまざまな経験を、思考や行動、決断の中でどのように 「統合」していくかなのです。

しかし、国際性、革新性、統合性という 「3i」が賞賛される一方で、この10年間で対立勢力が現われていることにも気づきました。

特にこの10年間は、ローカリズムがインターナショナリズムに優先する傾向が見られました。ローカルなコーヒーロースターは、グローバルチェーン店よりも優れているとみなされ、好まれるようになったのです。また、伝統的な「クラフツマンシップ」への回帰も見られました。無限の可能性と最新の技術革新を追求するのではなく、手作りであることがキーインフルエンサーを含む多くの人々に求められるようになりました。全方向ジェネラリストや統合するインテグレーターよりも、「スペシャリスト」の方が評価されることも多くなりました。 

私は、アート制作を実践する中で、このような均衡性のある要素に注目しています。

私にとって、ビジュアルアートは、言語の境界を超えた国際的な言語です。同時に、自分が受け継いできた文化的背景にも配慮しています。多くのアーティストと同様に、私も常に革新的なアイデアやブレークスルーを求めています。先人たちの伝統や固有の文化的要件をとても尊重しています。混せ合わせて創りだすことにも熱意を持っています。 結局のところ、「クリエイティビティ」がすべてのアートの本質であり、自分の「心」から働きかけることが、先人たちの魂と対話するための唯一無二のアプローチであるというのが、私の信念です。 

クリエイティブシンキングについて、もう少し詳しくお話したいと思います。

先日、香港に行ったときのことです。地下鉄MTRに乗っていると、車両の中央の1本のポールの代わりに、3辺がカーブした凝った構造のバーが設置されているのに気づきました。一人か二人しかポールを持てない代わりに、このバー構造によって、より多くの人がより快適な方法で体を支えることができるようになりました。エレガントで魅力的に設置されています。そんな独創的なデザインでした。

この10年、国際的なトップビジネススクールは、デザイン思考をカリキュラムに取り入れるようになりました。

では、デザイン思考とは何でしょうか?デザインプロセスは、多くの場合、目の前の問題を十分に検討することから始まります。一連のデザイン問題が定義され、明確にされると、デザインを始める本当のチャンスが到来します。真のクリエイティビティは、問題を特定することから始まります。肝心なのは、適切な質問を見つけそれを明確に表すことです。

香港の地下鉄のポールの場合、その問いは次のように考えることができます。まずはじめに、機会を見出すのか、課題を見出すのか、ということです。次にポールを改善するための課題をどう定義し明らかにするのか。そうであるならデザイン上の課題は何かー立っている不安定な乗客にどう対処するのか...、などです。正しい問いを立てることは、デザインやクリエイティブなプロセスを形成するための道のりの半分といえます。デザインの要諦として、 「問題を特定すれば、解決策は後からついてくる」 という格言があります。

真のブレークスルー思考は簡単なものではありません。地を揺るがすような、あるいは天井を突き破るようなものを生み出す能力は、実に稀有な才能といえます。

ほとんどのクリエイティブ作品は、画期的とはいえず、デザインや創造性において漸進的なステージにあるかもしれません。そのようなクリエイティビティには、確かにメリットがあります。

日本の 「カイゼン」 は、その良い例です。LBSの授業で、日本の蛇口の進化を示すポスターを見せられた日のことは、今でも忘れられません。そのポスターは、5×6の格子枠に30個の蛇口を並べたもので、長年にわたってデザインが改良され、機能面では毎年わずかな変化しかないことが示されていました。私たちは皆、デザイン進化の段階的な素晴らしさに驚きました。

iPhoneにしても、日本の蛇口にしても、他の発明にしても、創造性が発揮された事例です。これらの発明は、私たちのニーズを満たし、私たちが気づかないうちに利益をもたらしてくれているのです。こうして、まだ実現されていない需要や機会が満たされ、具現化されるのです。

画期的なデザインも、進化したデザインも、想像力が必要なのは至極当然です。

私は、戦略コンサルティングと企業経営の分野でセカンドキャリアを積んできたことを幸運に思っています。ロンドンでの思い出深い2年間の留学の後、マッキンゼーで戦略コンサルティングを経験しました。

マッキンゼーでは、マレーシア政府の「マルチメディア・スーパーコリドー(MSC)」建設を支援するという、注目度の高い仕事を担当することになりました。このプロジェクトは、マッキンゼーの元パートナーで、当時のマハティール首相の顧問であった大前研一氏が主導したものでした。

マッキンゼー勤務後、私はヘッドハンティングされて、当時世界4大メディアコングロマリットの1つであったバイアコム Viacom の MTV アジア支社に入社しました。 MTVアジアにいた頃は、インターネットやオンラインがエンターテインメントの主要な配信プラットフォームとなる前の、ケーブルテレビや衛星放送の全盛期と重なります。 私は、日本とのライセンス契約や、韓国、フィリピン、インドネシアでのジョイントベンチャーを監督していました。アジアで3チャンネルだったMTVを、アジアで 20 の24 時間放送のブランド専門チャンネルに拡大させたことは、私たちチームにとって忘れられない思い出です。

1998年から2005年までの MTV Networks Asia での8年間は、実り多いものでした。アジア全域の異なる文化圏から集まった才能溢れる人々と仕事をする素晴らしい機会を得ました。また、ロンドンやニューヨークの本社とも密接に仕事をしました。南アフリカで100番目の MTVチャンネルが開局した日、CCTV中国で初のアワードショーを開催発表日、SMGTVとともに上海でスタイルアワードショーを開催した日などを思い出します。自らの記録を破り歴史を塗り替えた日々でした。

当時、年間180日以上の出張があり、楽しい反面、疲れることもありました。2005年末、当時42歳の私は、もう限界でした。企業で働くことを辞めることにしました。

第二のキャリアとして、地元や世界を股にかける仕事を楽しみました。このままマネジメントやストラテジストとしての道を歩むこともできたかもしれないし、できなかったかもしれない。最後は、手遅れになる前に、愛と情熱を持ち続けていた 「コト」 に戻るためにそろそろ軌道修正しようと思ったのです。

Talk 3
自由人

私は42歳で会社員を辞めました。それは 「引退」するには少し若すぎると多くの人は言うでしょう。私の返事は「私は引退するわけではありません。会社生活から引退した」でした。 MTV Asia の最終出社日は2005年12月31日でした。2006年1月1日、私は新たに生まれ変わりました。

2度目のキャリアは楽しいものでした。経営に重きを置き、クリエイティブの最前線にいた1度目のキャリアほど 「自由奔放」 ではなかったですが。

ロンドン・ビジネス・スクールで2年間のMBAを取得した後、マッキンゼーで2年弱の戦略コンサルタント、MTVアジアで8年間、北アジア担当のマネージング・ディレクターとして勤務しました。MTVアジアでは、アジア戦略・開発部門のエグゼクティブ・バイスプレジデントも務めました。当時はケーブルテレビと衛星放送の黄金時代で、MTVは最もクリエイティブなグローバルテレビブランドのーつでした。私は幸運にも、この地域や世界中の最高のクリエイティブな人たちとー緒に仕事をする機会に恵まれました。

真にグローバルでクリエイティブな素晴らしい時代でしたが、人としてクリエイティブにかかわる存在として、もっと多くのものを求めている自分に気づきました。

真にグローバルでクリエイティブな素晴らしい時代でしたが、人としてクリエイティブにかかわる存在として、もっと多くのものを求めている自分に気づきました。

この決断を下してそれを実行に移す決意を固めるのは簡単ではありませんでした。若年で安定した社会人生活を諦めるなんてという両親や仲間からのプレッシャーもありました。でも、一度決めたら、あとは流れに身を任せ、大きな目標に向かい、模索しながら進むしかなかったのです。

というわけで、自由な発想で突き進みました。

会社を辞めてからの早送り18年後。 

20代のファーストキャリアが10年弱、MBA取得後のセカンドキャリアが10年弱と考えると、10+10でファーストキャリアとセカンドキャリアの期間は20年。アーティストとしての自由奔放な時期は、現在までに18年で、ファーストキャリアとセカンドキャリアを合わせた期間とほぼ同じです。

では、この18年間、私はサードキャリアとして何をやってきたのでしょうか。

自分の作品制作とは別に、会社員になってからの人生で、私は3つのことを行ってきました。それらは、以前から叶えたいと思っていた小さな叶わぬ3つの夢だといえます。チャンスが来て、それをつかんだのです。

まず、香港大学のMBAプログラムの講師として招かれました。これは、香港大学がロンドン・ビジネス・スクール (LBS)と戦略的提携を結んだことに伴うチャンスでした。2006年から2011年までの5年間、同プログラムで教鞭をとりました。当時、 LBSの校長は、アメリカの経済学者で、クリントン政権の元経済顧問でもあるローラ・タイソン (Laura Tyson) 教授でした。私は、タイソン教授が議長を務める同校の地域アドバイザー・ボードとして招聘されたのです。ちょうど LBSがコロンビア大学のビジネススクールや香港大学のビジネス学部との3方向(ロンドン−ニューヨーク−香港)の戦略的パートナーシップを結び発展した時期でした。まさにその当時は自由で独立していた私にとって最高のタイミングでした。

2011年、私は、アジアでの事業拡大を目指すカナダ人建築家、ビング・トム (Bing Thom) 氏と知り合いになりました。彼は、ワシントンDCで劇場と関連建物の改修・増築を行った「アリーナ・センター」を完成させたばかりでした。このような偉大な建築家と個人的に仕事ができるのは貴重な機会でした。私はこのチャンスを生かし、4年間、事務所の戦略アドバイザーとして働きました。

その間に、西九龍文化区にある中国のオペラハウス 「XiQu Centre」 の国際コンペで優勝しました。私は、この会社が香港の会社と設立した合弁事業の取締役になりました。また、この会社は、香港のビクトリアロードにシカゴ大学のアジアキャンパスであるシカゴブースを建設しました。残念なことに、ビング・トムは2016年に亡くなりました。

ビング・トムを通じて、私は香港の1940年代の建物、ホー・パー・ヴィラ (虎豹別墅) の再生という魅力的な建築保存プロジェクトにリード・マネージャーとして関わることになりました。私は、「神様は、私が建築の勉強をせずに逃げ出すことを許さないだろう」と自分に冗談を言ったことがあります。ビン・トムのおかげで、私はその輪を広げることができました。

3つ目は、同じく優れた建築家であるチャン・イメイと共同で、4歳から6歳の子どもたちの創造性の育成と学習に取り組む香港の非営利団体を立ち上げたことです。これは、ビン・トムやH虎豹プロジェクトを通じて知り合った故胡文虎氏の娘、胡仙氏からの多額の寄付金によって実現しました。3年間で、200以上のプログラムを提供し、10以上の地域コミュニティと協力できたことを誇りに思います。 

先ほども触れましたが、会社勤めを辞めた私は、「フリーソウル」、つまり、自由な精神、夢想家、冒険家になることを目指していました。

自由な精神、夢想家、冒険家でありたいという願いに挑戦していました。私はもう、伝統的な社会の価値観や構造、規範に縛られることはない、と自分に言い聞かせたのです。

それは、愛する人の意見を無視したり、責任から逃げたり、愚かな自由を求めたりするということではありません。ただ、流れに身を任せ、自然体を受け入れ、型にはまることを拒否し、勇敢に生きていこうと決めたのです。

自分のアート制作の話に戻ります。10年前、50歳にして初めての個展 《山不動》 を開催したとき、私の「第3の」キャリアは「公式」になったのです。2013年、香港のフリンジギャラリーで初の個展 《山不動—ブラックシリーズ》   ( Black Series) を開催しました。

翌年、キュレーターに誘われ、スワイヤー・グループの支援を受けて、北京にあるオポジット・ハウスのアトリウム (600 平方メートル) で2度目の個展を開催し、《山不動》 を展示しました。 《山不動—素白系列》 (White Series) (2014年)です。私は、妻のレインボーとクリエイティブなパートナーシップを組んで展覧会を開催しました。高さ4.5m、長さ9m、幅5mの巨大なインスタレーションをー緒に作りました。私たちはその反響に驚きました。それ以来、私は制作を続けています。

収穫とは、種をまいて、植え、耕したうえで得られる結果です。 自分が蒔いた種を収穫するのです。成功の証は、収穫そのものではなく、蒔いた種とそれを育てる努力によってはかられると言われています。

30年以上前、私はカナダのオタワでレインボーと結婚し、愛の誓いを立てました。

「もし私が正しいことを一つだけするなら、それはあなたを愛することです」。

レインボーとの結婚生活を通して、私は愛が永続的で忍耐強く、優しいものであることを悟りました。愛を見つけると、もう自分の道を行くことにこだわらなくなるのです。愛は苛立ちや憤りを感じさせず、不義を喜ばず、真実を喜びます。

努力と粘り強さは重要ですが、私は、できることなら、自分のしていることを愛さなければならないと思うようになりました。

私たちの結婚記念日に、レインボーと私はお互いの人生を語り合いました。「人生がこんなに面白い無数の場所に連れて行ってく、て一緒に生活し働いたことを誰が想像できたでしょう。 香港、モントリオール、ロンドン、シンガポール、上海、北京、ケロウナ、そして今はバンクーバーです。そのリストには、サンパウロへの忘れられない1ヶ月の仕事旅行や、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの都市に行った数え切れないほどの出張や休暇旅行も含まれています。直近の仕事で、妻は国際映画祭のエグゼクティブとして、タリン、シッチェス、ベニス、アテネ、ヘルシンキ、ネパールにまで訪問地を拡大しています。国際映画祭が開催されるところなら、ほぼどこにでも行くと言っています...。

私たちにはまだ夢があり、心は永遠に若いのです。

今日、私たちは東京で、私の展覧会《雲にキス》 を開催しています。私はちょうど60歳になったばかりです。最後に雲にキスしたのはいつ?

今日ここに集うすべての人が、心のままに身体を動かすことができる体格と強さを備えていることを祈ります。そして、あと30年後、90歳を迎える私自身もそうありたいと願っています。

私は、この先も自分の仕事に集中し、献身的に取り組んでいきます。

「空の高みを目指してと言われたとき、 星を取ってあげると約束したね!かけがえのない思い出、かけらになった物語、“すべて”互いに絡み合っている。」

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TALK 123

Talk 1

THE CURIOUS MIND

Good morning, everyone. My name is Charles Chau. 

To many of you, I may come forward today simply as an artist. However, my career path to becoming an artist wasn’t straightforward – there was no natural progression to being before you today, speaking to you as a professional artist.

I was born in in 1963, Hong Kong, then a British colony. Like most children in Hong Kong those days, studying hard was very much the norm – the only thing to do. Sure, we did have casual ‘play’ times, but it was all study, study, and study – that seemed to be our only purpose; the one-and-only-one objective of life… 

Talk 2

VENTURING OUT

In a way, structural thinking is analogous to ‘analytical’ thinking or to ‘critical’ thinking in the philosophical tradition, in which I received my training in Philosophy for my undergrad at HKU, given that both involve thinking in a logical, coherent manner.

 

Some argue that artists need not be logical or that somehow artists’ works cannot and should not be comprehended by simple logic alone. I accept that is true in part. Certain great works always have an inexplicable emotional element that is beyond logic.  

However, I realised early on that I was drawn to artists’ works that have a strong sense of structure and sequencing. In my own work, I enjoy setting out the rationale for what I am trying to do. I do think deeply on issues and have come to form my own views on the structure, purpose and meaning of art. I have started to write short essays on the subject, notably around aesthetics, the role of the viewer, and the philosophy of language…

Talk 3

THE FREE SPIRIT

I had decided to fight for what I aspire to – for what I love, for what defines me. I told myself that I would no longer be inhibited by traditional society values, structures or norms.

 

In saying that, I did not mean that I would disregard the opinion of people whom I love or shy away from my responsibilities or aspire to any sort of foolish freedom. I decided that I would simply go with the flow, embrace spontaneity, reject conformity and live my life bravely.

We all know that the harvest is only a result of seeding, planting and cultivating.  You harvest what you sow. It is said that measurement of success, if it comes, is not of the harvest itself but of the seeds planted and effort to cultivate them.

While hard work and persistence are key, I have come to learn that we must – if we can – love what we do. We still have dreams; our hearts are forever young. Today, here we are in Tokyo, with my exhibition, When did you last kiss the clouds?. I have just turned 60…

妙なる天上。境界となるところ ― 地平線で雲の岸辺は山並みとなる。